像をインターフェイスとするメディアは現代社会の情報伝達において重要な役割を持つようになった。89年のベルリンの壁崩壊時、人々が歓声と共に壁に上る姿はブラウン管を通して世界各国に伝わり、2001年のワールドトレードセンターの崩落は、世界中に生中継で放映された。一方で、メディア機器は、低価格化によって、日常を記録する身近な道具として一般にも普及した。また、メディアは現実の記録や再生だけでなく、CGやアニメといった虚構の世界も生み出した。
       


このように場所と時間、世界と個人、現実と虚構を横断するメディアの力は、現代の社会や文化を変容させつつある。これは、世界中を繋ぐインターネットの環境整備と、PCの演算能力の高速化や、記憶装置の容量の拡大等の技術革新に支えられている。
 芸術の世界でも、20世紀後半より映像が表現手段として取り入れられるようになった。グローバル化に拍車のかかる現代美術においては、映像表現は作品輸送の手軽さと、機材のみでインパクトのある視覚空間を瞬時に作り出せる利点ゆえ重宝される。今回のプロジェクトでも、メディアが得意とする時間の再現性や、機動性を活かしながら、独自の表現が展開された。中でも、会場ではなく、ヴァーチャルなWeb上で発表された作品の存在は、新しいメディアの活用として特筆すべき表現であった。メディアを用いた作品は、我々が、ここにいながらここではないという、新たな場へアクセス出来る可能性を示していた。

作家紹介
ジリアン・ホルト

《現実逃避主義者》
2008
映像(6分30秒)
 ジリアン・ホルトはイギリスからの移住者であり、それに起因する問題や混乱を実際にこれまで経験してきた。《現実逃避主義者》は、ドイツ、ポーランド、イギリスの3カ国を往来して収集した膨大な量の映像によって構成されたフィクションの短い映像作品である。公園でくつろぐ人々や雨水が流れ込む側溝のクローズアップ、道端の車から降りる男性を映し続ける静止画、断片的な映像が淡々と映し出される。それらは、組み合わさって明確なストーリーを生み出さないように、注意深く編集されている。鑑賞者は映像からストーリーや意味を慣習的に紡ぎだそうとするが、その試みは徒労に終わる。しかし、生成され続けるイメージは、次々と物語のフレームを提供し続け、鑑賞者はそのフレームと物語の間を彷徨い続けることになる。
 タイトルにある《現実逃避主義者》は、作品が実際に3か国をまたいで制作されたことを考えれば、作家自身が逃走し続けていることを示しているようにもとれるし、物語を生成しようとする映像言語から逃走するということを意味するようにもとれる。
ジルビア・ローレンツ

《禁じられた狐》
2008
20.0x29.0cm
テープ、プラスチックシールド
 近年ヨーロッパの大都市では、キツネやタヌキ、アライグマに代表される野生動物による被害が深刻化している。各大都市はそれらの動物達を害獣として都市部から駆除する政策を打ち出している。しかし、これらの動物達が、なぜ、都市部に現れているかという背景を考えれば、そこに見えて来るのは、自然環境の大規模な破壊であり、エゴの表出としての都市である。ジルビア・ローレンツは、図らずも大都市に異人/異物として挿入されたキツネを、大都市に暮らす外国人になぞらえ、その生活を描く事により、都市部に暮らす外国人を取り巻く環境について多くのメタファーを示している。さらにローレンツは、会場内にキツネの駆除を呼びかけるポスターを配置し、問題のキツネはインターネットの中に姿を潜ませるという演出により、駆除されるキツネとそれを追いかける人々の関係も作品の中に潜ませる事に成功している。
ジルビア・ローレンツ+アレクサンドラ・ジェストロビック・オラ・ジャメスディン

《寓話/レディー・フォックス:エピソード1(野生動物にエサを与えると5000ユーロの罰金が科せられます)》
2008
http://jamesdin.sitebooth.com/
 近年ヨーロッパの大都市では、キツネやタヌキ、アライグマに代表される野生動物による被害が深刻化している。各大都市はそれらの動物達を害獣として都市部から駆除する政策を打ち出している。しかし、これらの動物達が、なぜ、都市部に現れているかという背景を考えれば、そこに見えて来るのは、自然環境の大規模な破壊であり、エゴの表出としての都市である。ジルビア・ローレンツは、図らずも大都市に異人/異物として挿入されたキツネを、大都市に暮らす外国人になぞらえ、その生活を描く事により、都市部に暮らす外国人を取り巻く環境について多くのメタファーを示している。さらにローレンツは、会場内にキツネの駆除を呼びかけるポスターを配置し、問題のキツネはインターネットの中に姿を潜ませるという演出により、駆除されるキツネとそれを追いかける人々の関係も作品の中に潜ませる事に成功している。
シラ・ヴァックスマン

《ゆがみ》
2008
映像
 イスラエル出身のシラ・ヴァックスマンの映像作品《ゆがみ》では、黒いベールをかぶった女性が中心的な役割を演じている。女性は画面の外から挿入される男性の手によって、暴力的にそのベールをはぎ取られる。そして、その顔をあらわにするが、言葉を発したりはしない。ただ鑑賞者/カメラを見つめ続けるのみである。トルコからの移民を数多く受け入れてきたドイツにおいて、イスラム圏社会における女性の社会的地位は、多くの議論がなされている問題である。文化的、宗教的な背景と分ちがたく結びついているため、非常に複雑で簡単には解決し得ない。ベールをはぎ取られた女性が言葉を失っているのは、このような複雑な問題の背景のメタファーであるとも言える。
マティアス・ヴェルムケ+
ミーシャ・ラインカウフ

《ともかく、ありがとう》
2006
映像
 ドイツではしばしば、信号待ちの車に掃除夫が近づいてくる。彼らは洗剤の入ったバケツとモップを手に、断りもなくフロントガラスを清掃し、ドライバーから幾らかのチップを獲得する。
 マティアス・ヴェルムケとミーシャ・ラインカウフの映像作品《ともかく、ありがとう》は、無許可で公共交通機関や警察車両のフロントガラスを清掃するヴェルムケ本人と、それに驚いたり、喜んだりするドライバーとのやり取りが収録された、滑稽でシニカルな内容のドキュメント映像である。その反応は様々であるが、多くの人は嫌悪の表情と共に、そのような行為の許可書の提示を求める。権威主義的な対応は加速し、地下鉄で行った際には通報され、とうとう鉄道警察に連れて行かれそうになる。だが、一瞬の隙をついてそうした人たちを煙に巻く姿は小気味よい。良くも悪くもドイツらしい彼らの対応に投射されるのは、その国民的気質である。もしドイツ以外の国なら?という素朴な疑問が生じるが、その答えが端的に示すのは、それぞれの文化的背景が公共空間における個人の活動をいかに規定しているかという問題なのである。